聖ヨハネ騎士団
(Knights of the Order of St.John)


トルコの大包囲戦の勝利記念の像

istory 由来

聖ヨハネ騎士団の起源ははっきり分かっておらず、2つの説がある。
1つはイタリア都市国家の一つアマルフィの商人がエルサレムの聖ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を建設した事から、という説。
もう1つはフランス人騎士がエルサレムに聖ヨハネ施療院を創設、巡礼者の保護と救済を行った事から、という説。

いずれにせよカトリック教会に公認されたのは1113年。
1099年、第1回十字軍はイスラム教徒を破りエルサレムを征服した後、パレスティナでの宗教騎士団として教皇から正式な承認を得たのである。
当初は傷病者の治療と聖地を訪れる巡礼者の保護を目的としていたが(このことから聖ヨハネ騎士団はホスピタル騎士団とも呼ばれる)、 西欧勢力とイスラム勢力の武力闘争が活発になってくると、次第に軍事的要素を強めていった。

慈善を行う宗教団体と戦う騎士団、相反する性格の団体が一緒になったわけだが、理念は宗教的な考えが基となっており、騎士団に入団する者は、純潔・従順・清貧を誓い、 これに従った。
西欧諸国の貴族の次男以下の子弟によって構成され、結婚は認められず、異教徒とは徹底交戦が義務づけられ、指令があるまで戦い続けることが掟とされていた。


hodes ロードス島

1187年"イスラムの英雄"サラディンによりエルサレムがイスラム側に占領、奪還された。
1291年には最後の拠点アッコンを失ってエルサレム王国は滅亡し、騎士団はキプロスに逃れたのだったが、キプロス王が領土を 奪われるのではないかと心配し、騎士団の行動を制約したこともあり、1309年にロードス島を攻略、ここに本拠地を移した。

マルタの騎士団施療院 もともと巡礼者に医療を
施す団体だった為、行く先々で病院を建設した
エルサレム→キプロス→ロードスと転々としている間に騎士団は陸上で戦闘を行う部隊から海戦を行う部隊へと変更を余儀なくされた。
ロードス島では本来の保護と救済の役割を果たす為、病院経営に精を出す傍ら、近辺を航海するイスラム船を襲撃。破壊と積荷略奪を行った。
そればかりでなく船の漕ぎ手として使われていたキリスト教奴隷を解放することにより、西欧勢力に対し大義名分を掲げることが出来たのだったが、 イスラム勢力からしてみれば単なる海賊行為であったといえよう。

1444年にエジプトのスルタン、ジャクマックがエジプト商船に対する騎士団の略奪をやめさせるよう軍を差し向け、1480年にはオスマン帝国の メフメト2世が襲撃をしたが、これらを撃退、西欧諸国からはイスラム勢力に対する勝利として、騎士団の評判は高まったのであった。

しかし1522年、オスマン帝国(トルコ)のスレイマン大帝が20万の大軍で来襲した。
それを迎える騎士団側は雑兵まで含めて7千人ばかり。必死の防戦を繰り広げたが、オスマン帝国の大軍に包囲され、約5ヶ月の激しい戦いの末、遂にロードス島を明け渡し、シチリア島に撤退したのだった。


ew World 新天地

再び、本拠地をなくした騎士団は約7年間、クレタ島、ギリシャ、イタリア、フランスを転々と放浪していたが、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世から 毎年1羽の鷹をシチリアの総督に納めることを条件にもらう受けたのだった。

騎士団の到来は一般民衆にとっては海賊からの攻撃を防げるという点で歓迎されたが、当時のマルタを支配していた貴族・僧侶は島を騎士団の到来を好まなかった。
そこで騎士団が定住するにあたり、もともとマルタにいた支配者たちの特権や権利はこれまで通りであること、当時の首都イムディーナに干渉しないこと を条件として受け入れることにした。

首都イムディーナは内陸にあるので"イムディーナに住むな"という条件は、船を保有している騎士団たちにも都合がよかった。
彼らは複雑な地形を生かして要塞作りに着手、軍備を増強したばかりでなく、病院の建設、貿易の振興にも努め、マルタ経済はしだいに発展していったのである。


大包囲戦の舞台となったセント・アンジェロ砦
reat Sieze 大包囲戦
しかしスレイマン大帝は騎士団を追い詰めることを忘れてはいなかった。
マルタを攻略し、それを足がかりにヨーロッパへ侵攻しようと目論んでいたのである。

1565年、より強大に再編成されたトルコの大艦隊がマルタを包囲し、騎士団の息の根をとめにかかった。
騎士団長ジャン・パリゾ・デ・ラ・ヴァレッタはトルコ軍と海域で衝突するのを避け、 兵士たちをシベラス半島の先端にあるセント・エルモ砦、 ヴットリオーザのセント・アンジェロ砦、内陸のイムディーナへ配置した。

トルコ軍はまずセント・エルモ砦を攻撃。
約1ヶ月に渡る大激戦の末、セント・エルモ砦はついに陥落された。

次なる矛先はセント・アンジェロ砦を中心としたスリー・シティーズの港・砦に向けられた。
次第に兵力を損耗していく聖ヨハネ騎士団だったが、ヴァレッタが騎士たちを鼓舞し続けた。

約4か月間の攻防戦の末、スペイン支配下のシチリアからの援軍到着。
すでに多くの犠牲者を出していたトルコ軍はこれを機に撤退。
戦死者とケガ人の増加、兵器の補給が遅れた為、その強力な勢力を維持できなかったのだ。

トルコ軍に負けず大きな犠牲を出したとはいえ、戦いは聖ヨハネ騎士団の勝利に終わった。


騎士団長の宮殿に描かれた大包囲戦の絵
alletta ヴァレッタ

大包囲戦の後、トルコ軍が再び攻めてくるに違いないと考えていたヴァレッタはシベラス半島の護りを固めるべく、城塞都市を築く計画を立てた。

1566年3月28日、都市の竣工式が行われ、この新しい街は騎士団長の名前をとってヴァレッタと名づけられた。

トルコ軍の再来襲を恐れていた為、周囲を丈夫な城壁で固め、陸側には深い堀を設け、街を内外陸から孤立させたような状態にした。
こうして現在の巨大な軍艦のような街、ヴァレッタが完成したのである。

城塞都市の中は戦時を想定して碁盤の目状に道路を作り、人々の移動や荷物の運搬が簡単に行えるようにした。
問題は高低差。シベラス半島の地形は真ん中が小高い丘になっており、これをすべて平らにならすはずであったが、これには時間が(お金も)かかりすぎ実行されなかった。

この街の完成をヴァレッタが見ることはなかった。
竣工式の2年後、1568年にこの世を去ったのである。
ちなみに城壁が完成したのは竣工式から5年後の1571年であった。


ecay 衰退

騎士団長ヴァレッタの心配とは裏腹に、トルコ軍による二度目の攻撃は無かった。
その後も続いた騎士団によるイスラム船への海賊行為に目をつぶり、逆にマルタへ海賊行為に来ることもなくなった。
オスマントルコ帝国は衰退していったのである。

西欧諸国のイスラム勢力に対する恐れは薄れ、トルコに対する防御を騎士団に求めることはなくなっていった。
そして少しずつではあったが、トルコと貿易をする者まで現われ始めた。

こうして経済・文化的反映を見る平和な時代がやってきた。
しかし、平和な時は騎士たちの信仰と騎士としての精神を蝕んでいったのだろう。
目的を失った騎士たちの生活は自堕落となり、戦うことすら忘れ去っていった。


rench フランス人

聖ヨハネ騎士団 平時の服装
1798年、当時はもちろん現在でも有名なフランス人がマルタを訪れた。
彼の名はナポレオン・ボナパルト。

エジプト遠征途中のナポレオンは水と食料の調達を口実にマルタに寄港。
騎士たちは10年前にフランスで起こった革命に共鳴している者もおり、ナポレオンが上陸してすぐに、彼らが護っていた場所をナポレオンに明け渡し、ヴァレッタの街周辺の港・砦にフランス軍を配置した。

それに対し、当時の騎士団長フォン・オンペスクは無抵抗のまま降伏してしまった。
ナポレオンは「マルタには堅固な防衛施設はあったが、道徳的な強さが皆無だった」と語ったという。

ジャン・パリゾ・デ・ラ・ヴァレッタは外からの攻撃に備え、街を強固な要塞にしたが、実は敵は中にいた・・・ということであろうか。

ast Curtain 終幕

ナポレオンはヴァレッタに凱旋してから1週間後、騎士団長はじめ騎士たちをマルタ島から追放してしまった。
こうして268年に及ぶ聖ヨハネ騎士団のマルタ島支配はあっけない幕切れを迎えたのであった。

またしても本拠地を失った騎士団はヨーロッパ中を流浪するが、すでに求心力を失い、騎士たちはバラバラに散っていった。

しかし大半の者はイタリアへ渡り、ポンペイ、メッシーナへと転々とするが、最終的にはローマに落ち着き、修道院を設立。
そして騎士の名誉と身分を切望する貴族や新興有産階級の者、既婚者も信徒として快く迎えられるようになった。

現在も聖ヨハネ騎士団は、ローマを拠点に各国で医療活動に従事する慈善団体として存続している。

一方、その後のマルタ。
マルタを占領したフランス軍は教会にあった貴重な芸術品を略奪、また公共の建造物には聖ヨハネ騎士団の紋章が多くあったが、取り外しが難しかった為、 これを破壊、そして軍に雇われたマルタ島民に給料を支払われなかったことから島民の反感を買う。

ナポレオンの占領から2年後、マルタ島民はイギリスに援助を要請し、フランス軍をマルタから一掃。
その以降、160年間、イギリスの統治下にはいった。

マルタが独立したのは1964年。
1974年に共和制を宣言し、マルタ共和国が誕生した。

(Pi-子)




(本文の参考にさせていただいた本・サイト)

「地球の歩き方 南イタリアとマルタ」 地球の歩き方編集室 ダイヤモンド社
「マルタとその島々」 アルド・E・アッツォパルディ著 上田早智子訳 PLURIGRAF社(マルタにて購入)
「マルタの聖ヨハネ騎士団」 サイモン・メルチエカ著 BONECHI社(マルタにて購入)
聖ヨハネ騎士団フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
兄貴の花園(ロードスの騎士) ロードス島時代を中心に聖ヨハネ騎士団の足跡をたどっています。
本体は星矢サイトだったのですね・・・(^_^;A
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